2014年5月27日火曜日
儲からない車
ちょっと間を空けてしまいましたねw(ブログの投稿)
最近面白いニュースがありました
FIAT クライスラーのCEOのセルジオさんがこんなことを言ったのです
アメリカなどで売られているFIAT500のEVバージョンはみんな頼むから買わないで欲しい
少しは生産するが、それ以上きた場合、2度目の破産申告をする羽目になるというのです
その500Eは500の可愛らしいボディーはそのままにEVを移植したというもので、ボディーのフロア部分のねじり合成が10%アップしていて、バッテリーも低重心化に一役買い、アメリカのメディアやヨーロッパのメディアではなかなかの高評価を受けていて、
手の届きやすい料金設定、imievやリーフ、テスラにも負けないコストパフォーマンス
ただ一つ問題が、、、、、、1台売れるごとに1万4000ドル近くの損出が出るというのですww
アメリカを中心に販売されている500Eは元の値段が320万ほどであるのだが、減税制度で200万ちょっとでことが足りる。その中で1万4000ドルの損出はでかい。ライバル車を圧倒できるスペックを兼ね備え、買いやすい制度まで投入したFIATにとってはやめても地獄、売っても地獄というところではないのだろうか。
この問題で明らかになったのは、EVの採算のとりにくさである、、テスラのように法外なバカ高い値段で売っているのならまだしも、コンパクトカーでかつEV,お手頃というのは難しいのかもしれない
2014年5月18日日曜日
アバルト part1
皆さん、アバルトってご存知ですか???
いまのみなさんの認識だと、Fiatのチューナー、500のチューンだけだと思ってました。
最近まで私もそう思い込んでいました
アバルトファンならご存知でしょうが、そんなアバルトの今までをご紹介したい
1908年創業者カールアバルトは生まれた、アバルトは生来のイタリア人ではなかった。
イタリア人系オーストリア人の父と、オーストリア人の母を持ったカルロアバルト。
彼がはまっていったのは、自動車競技と機械工学、その成り行きでモーターサイクルの道を歩み始めた。自動車工場で見習工として働く傍らでウィーン大学に通い、プライベートでレースを始めた。
初レースは初優勝!ライダーとしても才能があった、この勝利によって当時最強と言われたDKWチームの一員としてむかえられた、移籍後も期待に応えていたのだが、、、、
1930年事故に遭ってしまう。医師団から2輪レースを禁止されてしまう。
そこで3輪だったらいいだろうとサイドカーのレースに出場し始める。
(二輪ともそう変わらないと思いますwww)
そして自分の手で画期的なフレームのサイドカーを作り上げ、ヨーロッパ最強のサイドカー乗りとなった。レーサーとしてだけではなくチューナーとしての素質もこの頃から現れている。しかしまた彼を悲劇が襲う。
ドイツではファシズムが進み、同じ枢軸国でもゆるいイタリアで活動をすることにした直後、
事故に遭う、大事故で昏睡状態に陥るほどのものだった。
そしてようやく死地から戻ってきたカルロは第二次世界大戦真っ只中のイタリアにいた
第2次世界大戦集結後、
アバルトは友人だったポルシェのエンジニアだったフルシュカ技師のチシタリアに入ることになる。
チシタリア社は当時D46というF1マシンを開発し、参戦、レーシングカーやスポーツカーを販売、製造していた自動車会社のことで、
最も有名なのは202というモデルである。F1ではいい結果を残すことはできなかったが、FIATの車をベースに、美しい純レーシングカー、美しいスポーツカーを世に送り出した、ポルシェともつながりがあり、F1マシンを作ることになるのだが、4WD、V12スーパーチャージャーという斬新で画期的で先を行き過ぎていたせいか、なかなか進まず、苦労し、開発費用で首が回らなくなり破綻。
アバルトはここでも優秀なメカニックとして働いていたが、けいえいしゃのデュジオはどっか行ってしまう、メカや従業員は置いてきぼりを食らった。しかし、ドライバーのグイドスカリアーリーの父アルマンドが資産家でチシタリアに惜しみない助力を与えた、アルマンドはアバルトの経営能力と、メカとしての技術を買っていて、資金を出すからアバルトをリーダーにした会社をしないかと持ちかけたが、
アバルトはチシタリアの皆をほっておくわけには行かなかった。
しかし、抵当権がたくさんかかった工場と仲間を味方に進むことを選んだ
ここでの苦労が、アバルトの価値観、経営の基礎を作った。
そして、オーストリアへさよならを告げたアバルトはイタリアに根付いたコンストラクターとして新たな門出を迎えることとした、1949年チシタリアの仲間や設備をそそのまま居抜き、
ABARTH&C.が誕生した、これがみなさんご存知のアバルトです
いまのみなさんの認識だと、Fiatのチューナー、500のチューンだけだと思ってました。
最近まで私もそう思い込んでいました
アバルトファンならご存知でしょうが、そんなアバルトの今までをご紹介したい
1908年創業者カールアバルトは生まれた、アバルトは生来のイタリア人ではなかった。
イタリア人系オーストリア人の父と、オーストリア人の母を持ったカルロアバルト。
彼がはまっていったのは、自動車競技と機械工学、その成り行きでモーターサイクルの道を歩み始めた。自動車工場で見習工として働く傍らでウィーン大学に通い、プライベートでレースを始めた。
初レースは初優勝!ライダーとしても才能があった、この勝利によって当時最強と言われたDKWチームの一員としてむかえられた、移籍後も期待に応えていたのだが、、、、
1930年事故に遭ってしまう。医師団から2輪レースを禁止されてしまう。
そこで3輪だったらいいだろうとサイドカーのレースに出場し始める。
(二輪ともそう変わらないと思いますwww)
そして自分の手で画期的なフレームのサイドカーを作り上げ、ヨーロッパ最強のサイドカー乗りとなった。レーサーとしてだけではなくチューナーとしての素質もこの頃から現れている。しかしまた彼を悲劇が襲う。
ドイツではファシズムが進み、同じ枢軸国でもゆるいイタリアで活動をすることにした直後、
事故に遭う、大事故で昏睡状態に陥るほどのものだった。
そしてようやく死地から戻ってきたカルロは第二次世界大戦真っ只中のイタリアにいた
第2次世界大戦集結後、
アバルトは友人だったポルシェのエンジニアだったフルシュカ技師のチシタリアに入ることになる。
![]() |
| チシタリアのF1マシンD46 |
最も有名なのは202というモデルである。F1ではいい結果を残すことはできなかったが、FIATの車をベースに、美しい純レーシングカー、美しいスポーツカーを世に送り出した、ポルシェともつながりがあり、F1マシンを作ることになるのだが、4WD、V12スーパーチャージャーという斬新で画期的で先を行き過ぎていたせいか、なかなか進まず、苦労し、開発費用で首が回らなくなり破綻。
アバルトはここでも優秀なメカニックとして働いていたが、けいえいしゃのデュジオはどっか行ってしまう、メカや従業員は置いてきぼりを食らった。しかし、ドライバーのグイドスカリアーリーの父アルマンドが資産家でチシタリアに惜しみない助力を与えた、アルマンドはアバルトの経営能力と、メカとしての技術を買っていて、資金を出すからアバルトをリーダーにした会社をしないかと持ちかけたが、
アバルトはチシタリアの皆をほっておくわけには行かなかった。
しかし、抵当権がたくさんかかった工場と仲間を味方に進むことを選んだ
ここでの苦労が、アバルトの価値観、経営の基礎を作った。
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| 202 商業的にはあまり良くなかったものの美術品として歴史の一部となった |
ABARTH&C.が誕生した、これがみなさんご存知のアバルトです
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