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2014年8月21日木曜日

小林可夢偉シートを失う??

ケータハムが次のベルギーグランプリからアンドレロッテラーと交代されることが決まったようだ


いきなりのことで私はびっくりしたが、なかなかケータハムのマシンでがんばっていただけに


いまいち理解できないという私のような方も多いのではないか

たぶんいると思うが

ケータハムのF1チームは事業家らに買収されたので

オーナーが変わったこと、覚えているだろうか

カムイは持ち込み資金がほぼなしで実力でシートを手に入れたため、

オーナが変わり方針も変わったようです

残念ですが、カムイもチームは去らないようなので

またF1にでるとおもいます

だってロッテラーの契約はベルギーのみとなっていますからね

たのむぞ!ケータハム

ということでカムイの鈴鹿のごぼう抜きをごらんいただこう

STIGはだれだ????

イギリス国営放送のBBCの人気カーテレビ「トップギア」

子供の発想といつまでも遊びの心を持つオジサン三人組には

笑わされ、いつも元気をもらうのだが、トップギアには前もご紹介したように

覆面専属ドライバーがいる

その名はSTIG

そのSTIGがまたまたすご技を見せてくれた

前の動画ではロータスからF1を手に入れる動画を紹介したが

今回は、、、、、、、、、、、、、、、、、、





みましたか???????????????

このすご技

ほんとうにだれなのか????

いろんな噂が立っているが

私服がストライプだとか?

足が三本だとか

誰かは定かではないが彼は歴史にSTIGと残すに違いない

2014年7月27日日曜日

やっぱりいいのか新型Cクラス

Cクラス、、、

メルセデスの本気

本田圭佑のCM

僕にとっては原子力潜水艦バリの衝撃だった

前にもこのブログでご紹介したように、Sクラスに負けない安全装備

100KG軽量化され、クラス関係なく素晴らしい、、らしいとか言えなかったわけだが、、

ほかに書いてある海外試乗記だけなく

実際に乗ってきましたw助手席にな


インテリアデザインはうちの親戚はSクラスを持っているのですが、、、、、、

旧型のSクラスから乗り換えてもかわらんやんけけけけけけけけけって自分壊れそうになるぐらいで
そして静かなのだ、かなりのスピードを出しても普通に会話ができる、街乗りしてるかのようでだった
内装はエアコンの送風口、センターコンソール、革のシートといい、、丁寧で乗り手にフィットするようになっている。

エンジン、車のパワーで言えば、私たちが乗ったのはC200アバンギャルドAMGだったが、かなりトルクフルで、街乗りでも、やんちゃなおやじさんでも峠で若いのに煽られてもしっかりと粘ってくれるので

そこらへんの下手な奴には負けないし、この乗り心地、スポーティーな走りであれば

同じCセグメントでは敵なしと言える

Cクラスは419万円から、、、いまいち方向性が決まってないスカイラインやセダンは
日本車という看板があるとはいえ苦しくなるだろうし、このくらすをかえるかくしんがこれからのC.セグメントをどう変えてくるのか楽しみだ



2014年6月25日水曜日

名門フェラーリと歴史


最近、フェラーリに力がない

アロンソは、力の限りを尽くしてオーストリアでも5位だった、それにはマシンの性能差があるとか、

ハミルトンのベンツ、レッドブルのマシン、の4台には歯が立たなかった、抑えきれないとまで発言している、、、、、アロンソはF1でも名ドライバーのひとりで5本の指に入るドライバーだ。それでも

そしてライコネンも10位でマシンのハンドリングで四苦八苦した

そんなフェラーリに撤退という噂が流れた

最近戦闘能力が低く感じられるフェラーリにルマン復活の話が流れ

2つ掛け持ちっていうのはむずかしいのではないのか

現実味のある噂だったため世界中に広まったが

次の記事にある通り、それは、否定された

フェラーリ撤退発言の裏に歴史あり繰り返される低迷と復活

SPORTSNAVIでこんな記事があった。

この記事を読んでみてどう思っただろうか、

輝かしい復活劇と苦しんだ低迷期

80年代はフェラーリにとって苦しい時期だったと言えるだろう

しかしそのあとにセナにはマクラーレンMP4-12C

プロストには名車641/2が与えられた

暑いシリーズ争いをプロストはこう振り返る、最高のマシンだった

そしてそのシーズンが最高のドライビングができたと、負けはしたものの、
愛される名車が生まれた。

フェラーリにはF1でも市販車でも最高のマシンを作ってもらいたい


2014年6月19日木曜日

McLaren P1 GTR

先日、マクラーレンからハイパーカーのP1の派生モデルであるP1 GTRのロゴが発表されました。クルマ好きならピンとくるとおもいますが、マクラーレンでGTRって聞くと真っ先にこれを思いつくんじゃないかなと思います。
マクラーレンF1GTRです。マクラーレンF1はBMWのV12を積む、約20年前のハイパーカーで最高速は400km/hに迫ります。単純に言えば、GTRはそのレーシングカーバージョンと言っていいでしょう。このモデルは、1995年にル・マン24 時間を制したクルマで、ドライバーにはこの年のル・マン24時間で日本人初の総合優勝を残した関谷正徳氏もいた。

そんな伝説があるGTRの名の復活だけあって、注目度も高いが、当然性能も高い。
ちなみにこのP1GTRはル・マンやそういったレースに出るクルマではなく、フェラーリのFXXのように一般(大富豪)人が購入しサーキットで走らせるというサーキット専用だ。(後にラ・フェラーリも同様のマシンを発表するらしい。)
P1 GTRに積まれるエンジンはおなじみ3.8のV8ツインターボ。しかし最高出力は1000馬力を超える。ルックスはよりアグレッシブになり、リアウイングは固定式になる。
価格も目が飛び出すほどの数字で、その額はなんと、3億4200万円!
しかし、世界にはクルマにそれだけの値段を出せる人はいる。
だが、このP1GTRはお金があれば購入できるクルマではない。様々な条件がある。
まず大前提だが、ノーマルのP1を所有していること。
そして、レーシングシュミレーターでマクラーレンの設定する規定タイムを超えなければならないという厳しい条件だ。

P1を所有していて、レースゲームが超上手で、お金に余裕がある人は検討してもらいたい。

2014年5月21日水曜日

ベルガーが語るセナプロ

記録より記憶に残る男のベルガーはセナのことをこう語っている。
ベルガーとセナの出会いは、かなり前だった
F3の頃からだった、べるがーはこう語っている。
F1へのステップアップへと道を歩めたと言っている

やっぱり、若かれし頃のドライバーというのは、自分が一番、それなりのライバルはいるものの、やっぱり「自分が一番で絶対に負けるわけない」と思っている、ということでセナをかなりライバルとして意識していたようだ。

アイルトンとは友好な関係を築いていた

プロストとセナについて

シンプルにこう語っている
「プロストとセナの関係は最低だったよw」

当時プロストはとっても速くて、勝てて、計算高いレースをする成功を収めたスーパースターだったと振り返る。そこにプロスト曰く、セナが入ってくるわけだが、セナについて、こう分析している。「プロストの一方、アイルトンは若いブラジルのドライバーだったものの、純粋な速さではアイルトンが勝っていた、だからこそプロストにとって難しい存在だったのだろう、」

「アイルトンはとにかく速かった。しかし、アランもそこの点は知っていた。だからこそ、ポールポジションは譲ってやる、しかし、ニキラウダとの1984年の頃と同じように、ニキは一度のポールポジションをとることはなかったが、優勝したように、経験やレース運びで優勝を勝ち取ってやると考えていたようだ」

1988年はアイルトンの速さが際立った年だった、予選では他のドライバーに圧倒的な差を見せつけ、プロストと競りあっていたのだが、第13戦ポルトガルで事件が起こってしまった、
事故によって再スタートになった一周目にプロストが幅寄せする、セナはそれに対抗するように幅寄せし返す、ここからセナとプロストの溝が深まってしまった、この時シリーズも終盤で、この一戦に負けてしまうと、プロストのチャンピオンはなかった。セナとプロストはピリピリしていた。最終戦までにタイトルを確定させた。

1989年はプロストが確実にポイントを稼ぎタイトルを獲得する。
決まったのは鈴鹿でのことだった、セナにとってこれが勝てねばタイトルがない一戦だった
セナはエンジンのピックアップも悪く、プロストに先行を許してしまった。
ウィングを寝かせたプロストと後のないセナはストレートで離れ、コーナーで縮むという熱戦を繰り広げていた。そして、シケインコーナーへと入るプロストはコンサバなラインを取る。
セナがそこに入る、しかし、プロストがライン通り入ってくる。クラッシュ、
セナはエスケープゾーンを使ってピットへ、エスケープゾーンを使ってショートカットしたとしてプロストは訴えます。セナはナニーニとの差を詰め、トップに立ちゴールしました。しかし、プロストの訴えが通じ失格、(エスケープゾーンでの失格と呼べるものではなかった)
その後押しがけによる失格に書き換えられている(しかし、こういうクラッシュはよくあることだ)
このことについてはこう述べている
「今でもこの件に関してはルールははっきり決まってないし、あの日が終われば決まっていた」
「クラッシュを避ける責任が何かなんて定まってないんだ。お互いに歩み寄ることが大切だが、相手のマシンに突っ込んでしまえばおしまい、そうしてタイトルを手にすることだってあるってことさ」
「そのあと二人は政治的な話し合いがもたらされた、二度と繰り返したくなかったから、アランはファンタスティックな最高なチャンピオンだったからこそテーブル上でチャンピオンが決まってしまったことは残念だったね、でもそれもレースの歴史の一部だしすごいチャンピオンシップだったよ。セナとプロストの最強の巨人が勝利を争って思いっきり衝突したんだ。最高だったよ。」

セナがいたからプロストの凄さも見えた、プロストがいたから、セナが光った

と言えるのではないでしょうか。


ベルガーはこの後セナとチームメイトになるわけですが、偏ってない意見だったと思います。
それにしても、べルガーが言うようにセナプロは凄かったんでしょうねー



2014年5月18日日曜日

アバルト part1

皆さん、アバルトってご存知ですか???

いまのみなさんの認識だと、Fiatのチューナー、500のチューンだけだと思ってました。

最近まで私もそう思い込んでいました

アバルトファンならご存知でしょうが、そんなアバルトの今までをご紹介したい

1908年創業者カールアバルトは生まれた、アバルトは生来のイタリア人ではなかった。

イタリア人系オーストリア人の父と、オーストリア人の母を持ったカルロアバルト。

彼がはまっていったのは、自動車競技と機械工学、その成り行きでモーターサイクルの道を歩み始めた。自動車工場で見習工として働く傍らでウィーン大学に通い、プライベートでレースを始めた。

初レースは初優勝!ライダーとしても才能があった、この勝利によって当時最強と言われたDKWチームの一員としてむかえられた、移籍後も期待に応えていたのだが、、、、

1930年事故に遭ってしまう。医師団から2輪レースを禁止されてしまう。

そこで3輪だったらいいだろうとサイドカーのレースに出場し始める。
(二輪ともそう変わらないと思いますwww)
そして自分の手で画期的なフレームのサイドカーを作り上げ、ヨーロッパ最強のサイドカー乗りとなった。レーサーとしてだけではなくチューナーとしての素質もこの頃から現れている。しかしまた彼を悲劇が襲う。

ドイツではファシズムが進み、同じ枢軸国でもゆるいイタリアで活動をすることにした直後、
事故に遭う、大事故で昏睡状態に陥るほどのものだった。
そしてようやく死地から戻ってきたカルロは第二次世界大戦真っ只中のイタリアにいた

第2次世界大戦集結後、
アバルトは友人だったポルシェのエンジニアだったフルシュカ技師のチシタリアに入ることになる。
チシタリアのF1マシンD46
チシタリア社は当時D46というF1マシンを開発し、参戦、レーシングカーやスポーツカーを販売、製造していた自動車会社のことで、
最も有名なのは202というモデルである。F1ではいい結果を残すことはできなかったが、FIATの車をベースに、美しい純レーシングカー、美しいスポーツカーを世に送り出した、ポルシェともつながりがあり、F1マシンを作ることになるのだが、4WD、V12スーパーチャージャーという斬新で画期的で先を行き過ぎていたせいか、なかなか進まず、苦労し、開発費用で首が回らなくなり破綻。

アバルトはここでも優秀なメカニックとして働いていたが、けいえいしゃのデュジオはどっか行ってしまう、メカや従業員は置いてきぼりを食らった。しかし、ドライバーのグイドスカリアーリーの父アルマンドが資産家でチシタリアに惜しみない助力を与えた、アルマンドはアバルトの経営能力と、メカとしての技術を買っていて、資金を出すからアバルトをリーダーにした会社をしないかと持ちかけたが、
アバルトはチシタリアの皆をほっておくわけには行かなかった。
しかし、抵当権がたくさんかかった工場と仲間を味方に進むことを選んだ
ここでの苦労が、アバルトの価値観、経営の基礎を作った。
202 商業的にはあまり良くなかったものの美術品として歴史の一部となった
そして、オーストリアへさよならを告げたアバルトはイタリアに根付いたコンストラクターとして新たな門出を迎えることとした、1949年チシタリアの仲間や設備をそそのまま居抜き、

ABARTH&C.が誕生した、これがみなさんご存知のアバルトです




2014年5月10日土曜日

最強のコンビは帰ってくる PART2

セナとプロストいろいろなことがあった、紳士協定事件、
そのほかにも、たくさんたくさん、鈴鹿の事故、幅寄せ、それを煽り立てるマスコミ

プロストは別に遅いドライバーでは全くなかった、プロフェッサーとのちによばれているが、

それは、ニキラウダとのチームメイト時代に築かれたものであろう。

それを知るのは、それまでの生い立ちをさらっとおさらいしよう。

1975年、レーシングカートでフランスを制覇

翌年からジュニアフォーミュラーに参戦、13戦中12勝を勝ち取り、圧倒的速さを見せつける
その次の年もチャンピオンになることとなった。

1978年ステップアップしF3に参戦、一年目はマシントラブルが多発、全く結果が残せなかったもののマルティーニルノーに乗り優勝。

そして、F1にやってくるのである。低迷期のマクラーレンでもマシントラブルが多発を経験し、ルノーに移籍。

F1で勝することとなる。シリーズリザルト5位

82年、シーズン序盤ランキングトップを走る、しかし、マシントラブルと自らのミスにより、順位を落とし、安定感を失ったプロストは結果ランキング4位となる

83年はタイトルがあと一歩だった。前年同様ランキングでトップにネルソンピケと13ポイント差をつける。しかし、中盤にピケを抜こうとして接触リタイアしてから一気に調子を落とし。
3ポイント差で敗北を喫した

そして84年古巣のマクラーレンに戻ることとなる
そしてこの年がターニングポイントとなった。

つづく

2014年5月8日木曜日

最強のコンビがF1に帰ってくる part1

今更と言われるかもしれないが、当時最強だったマクラーレンホンダが帰ってくる!!

ホンダF1第二期だ。ホンダはスピリットレーシングにエンジンを供給した

7位が最高順位とイマイチだった、その翌年、ウィリアムズと契約。初めは燃費の悪さが結果に繋がらなかったものの、ロズベルグが優勝し、一勝を獲得、
その次の年、新エンジンを搭載。燃費、ターボラグを克服、3,4位を獲得、調子を上げ、翌年はマンセルが優勝、ピケと二連覇を果たした。




そして、ウィリアムズの陣営の対応に不満を持ったホンダはマクラーレンとエンジンコンストラクター

としてパートナーを組む、マクラーレンと契約していたプロストに加え、ホンダは人気ドライバーアイルトンセナと蜜月関係となる。

アイルトンセナとプロスト、F1といえばこの二人という、おじさん世代も多いのではないだろうか?

この二人の出会いは、レーシングドライバーがメルセデス・ベンツでエキシビジョンレースをしたときのことだった、予選ではプロストが、本戦ではセナがトップとなった。プロストが予選を勝ちとってからセナは口をきかなかったというが、決勝では勝ったので評判を落とすことはなかった。初印象のアイルトンセナは静かな若者という感じだったという

プロストはマクラーレンにアイルトンセナを迎えることを望んだことで、マクラーレンとして、アイルトンセナとアランプロストのチームメイトとしてのキャリアが、セナプロ対決が始まったのである。
でも、一瞬に駆け抜け、純粋に速さと求め続けたセナと、ニキラウダに育てられ、レース展開、計画的に進めるチャンプのプロストが二人で並べるわけもなかった。どっちかがチームのファーストドライバーとなり、セカンドとしてアシストするなんてこともなかった。
チームは両方を立てた、お互いに自分が贔屓されるべきだと主張し合ったのだ。
そんなふたりが乗るマシンは出来が良かった
箱を開ければ、16戦15勝、圧倒的なホンダのターボエンジンと世界一のドライバーが組んだのだ

こうして華々しくデビュー、
またホンダは帰ってくる  

続く