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2015年7月23日木曜日

ホンダと一万時間

この一年でたくさんのことが起こりました、

ジェレミーがBBCをクビになった

新型ロードスターの販売、S660の軽スポーツの復活

俺の好きなマツダの車、本田のF1復活

このブログで噂したいろんな車の全貌も明らかに、

本当にたくさんのことが起こって、あなたに関係あることも

ないことも、あると思いますがこの一年を振り返りたいと思います

それは、これから一道が書いてくれるでしょうw

今日話す話はF1 honnda 復活の話を取り上げたいと思います

マクラーレンホンダとして挑んでいる本田

満を持して臨んだ本田だったのですが、帰ってきた答えは優しいものではなかった。
マクラーレンの姿勢に不満を表すジェンソン・バトン
ジェーソンバトン
アロンソ、12日(水)にマクラーレンと正式調印か
アロンソ

豪華なドライバー陣 道端アンジェリカとアロンソです


これが、ポイントランキングです
2015 CONSTRUCTORS
POSTEAMSAUSMYSCHNBHRESPMCOCANAUTGBRHUNBELITASGPJPNRUSUSAMEXBRAAREPTS
1
Mercedes AMG Petronas F1 Team
43
1,2
33
2,3
43
1,2
40
1,3
43
1,2
40
1,3
43
1,2
43
1,2
43
1,2
371pts
2
Scuderia Ferrari
15
3,DNF
37
1,4
27
3,4
28
2,5
25
3,5
26
2,6
22
4,5
12
4,DNF
19
3,8
211pts
3
Williams Martini Racing
12
4
18
5,6
18
5,6
13
4,10
20
4,6
0
14,15
23
3,6
25
3,5
22
4,5
151pts
4
Infiniti Red Bull Racing
8
6,DNS
3
9,10
2
9,DNF
10
6,9
7
7,10
22
4,5
2
9,13
1
10,12
8
6,DNF
63pts
5
Sahara Force India F1 Team
7
7,10
0
13,14
0
11,DNF
4
8,13
0
13,15
6
7,11
4
8,11
10
6,9
8
7,9
39pts
6
Lotus F1 Team
0
DNF,DNF
0
11,DNF
6
7,DNF
6
7,15
4
8,DNF
0
12,DNF
7
7,10
6
7,DNF
0
DNF,DNF
29pts
7
Sauber F1 Team
14
5,8
0
12,DNF
5
8,10
0
12,14
0
12,14
2
9,13
0
14,16
0
11,13
0
11,DNS
21pts
8
Scuderia Toro Rosso
2
9,DNF
10
7,8
0
14,17
0
DNF,DNF
2
9,11
1
10,DNF
0
12,15
4
8,DNF
0
DNF,DNF
19pts
9
McLaren Honda
0
11,DNS
0
DNF,DNF
0
12,13
0
11,DNF
0
16,DNF
4
8,DNF
0
DNF,DNF
0
DNF,DNF
1
10,DNF
5pts
10
Manor Marussia F1 Team
0
-
0
15,DNS
0
15,16
0
16,17
0
17,18
0
16,17
0
17,DNF
0
14,DNF
0
12,13
0pts
というように、ほぼ前半戦でポイントは取れてない状況で、前回レースの10位入賞とモナコでの8い位入賞だけで、あまり走れてない状態なんです


本田にとっても、マクラーレンにとっても厳しい状況なのは間違いないのですが、

ホンダは、まだ二年の開発を行っただけで、元々ESRというシステムは、メルセデスでさえ一年目は
リタイヤ、トラブルが続出しました。
石の上にも三年といいますが、成功するためには、一万時間の努力が必要とされます。
一日9時間とするとちょうど三年なんです!!

だから、シャーシやサスペンションなどの兼ね合いもありますが、
必ず一万時間取り組むことができれば、自ずと結果が出て来るはず。

さらにホンダは今までの、実績に自信をもって12時間、いや、それ以上取り組んでいるのだと思うので、大胆にも、僕は予想しちゃおうと思います。

来年はメルセデスとホンダとフェラーリの三強になるでしょw

なるといいなあああ




2014年6月19日木曜日

ミハエルシューマッハ 戻ってこい!!

昨日嬉しいニュースが届いた

な、なんとシューマッハが、意識を戻したらしい

これはとっても喜ばしいことであるものの、、、、、、、、、、、、、

退院したといっても、他の病院に転院しており、六ヶ月間もの昏睡状態にあったのである、、

医師からはこんな意見も

家族とコミニケーションがとれているといっても、

シューマッハの状態がどの程度かはわからない

だから、かなりの障害が残ってしまうのではないのか

シューマッハのような状態になった患者が耐えられる程度の障害になるパーセンテージは10%-30%と言われている

一旦ここまでの経緯をざっくりとまとめた

家族でスキーを楽しんでいたシューマッハはヘルメットをかぶって滑走中岩に激しく

頭部を強打、この時は意識もあり、大したことがないと報じられていた

ヘリコプターで病院に搬送後、容態が急変、有名な脳外科が執刀、

危険な状態と伝えられる

医師団は2度目の手術に成功

安定期に入りそれから長いこと昏睡状態が続き

反応が見られるようになり今に至った


明るくいい報告を待ちたい

2014年5月21日水曜日

ベルガーが語るセナプロ

記録より記憶に残る男のベルガーはセナのことをこう語っている。
ベルガーとセナの出会いは、かなり前だった
F3の頃からだった、べるがーはこう語っている。
F1へのステップアップへと道を歩めたと言っている

やっぱり、若かれし頃のドライバーというのは、自分が一番、それなりのライバルはいるものの、やっぱり「自分が一番で絶対に負けるわけない」と思っている、ということでセナをかなりライバルとして意識していたようだ。

アイルトンとは友好な関係を築いていた

プロストとセナについて

シンプルにこう語っている
「プロストとセナの関係は最低だったよw」

当時プロストはとっても速くて、勝てて、計算高いレースをする成功を収めたスーパースターだったと振り返る。そこにプロスト曰く、セナが入ってくるわけだが、セナについて、こう分析している。「プロストの一方、アイルトンは若いブラジルのドライバーだったものの、純粋な速さではアイルトンが勝っていた、だからこそプロストにとって難しい存在だったのだろう、」

「アイルトンはとにかく速かった。しかし、アランもそこの点は知っていた。だからこそ、ポールポジションは譲ってやる、しかし、ニキラウダとの1984年の頃と同じように、ニキは一度のポールポジションをとることはなかったが、優勝したように、経験やレース運びで優勝を勝ち取ってやると考えていたようだ」

1988年はアイルトンの速さが際立った年だった、予選では他のドライバーに圧倒的な差を見せつけ、プロストと競りあっていたのだが、第13戦ポルトガルで事件が起こってしまった、
事故によって再スタートになった一周目にプロストが幅寄せする、セナはそれに対抗するように幅寄せし返す、ここからセナとプロストの溝が深まってしまった、この時シリーズも終盤で、この一戦に負けてしまうと、プロストのチャンピオンはなかった。セナとプロストはピリピリしていた。最終戦までにタイトルを確定させた。

1989年はプロストが確実にポイントを稼ぎタイトルを獲得する。
決まったのは鈴鹿でのことだった、セナにとってこれが勝てねばタイトルがない一戦だった
セナはエンジンのピックアップも悪く、プロストに先行を許してしまった。
ウィングを寝かせたプロストと後のないセナはストレートで離れ、コーナーで縮むという熱戦を繰り広げていた。そして、シケインコーナーへと入るプロストはコンサバなラインを取る。
セナがそこに入る、しかし、プロストがライン通り入ってくる。クラッシュ、
セナはエスケープゾーンを使ってピットへ、エスケープゾーンを使ってショートカットしたとしてプロストは訴えます。セナはナニーニとの差を詰め、トップに立ちゴールしました。しかし、プロストの訴えが通じ失格、(エスケープゾーンでの失格と呼べるものではなかった)
その後押しがけによる失格に書き換えられている(しかし、こういうクラッシュはよくあることだ)
このことについてはこう述べている
「今でもこの件に関してはルールははっきり決まってないし、あの日が終われば決まっていた」
「クラッシュを避ける責任が何かなんて定まってないんだ。お互いに歩み寄ることが大切だが、相手のマシンに突っ込んでしまえばおしまい、そうしてタイトルを手にすることだってあるってことさ」
「そのあと二人は政治的な話し合いがもたらされた、二度と繰り返したくなかったから、アランはファンタスティックな最高なチャンピオンだったからこそテーブル上でチャンピオンが決まってしまったことは残念だったね、でもそれもレースの歴史の一部だしすごいチャンピオンシップだったよ。セナとプロストの最強の巨人が勝利を争って思いっきり衝突したんだ。最高だったよ。」

セナがいたからプロストの凄さも見えた、プロストがいたから、セナが光った

と言えるのではないでしょうか。


ベルガーはこの後セナとチームメイトになるわけですが、偏ってない意見だったと思います。
それにしても、べルガーが言うようにセナプロは凄かったんでしょうねー



2014年5月18日日曜日

アバルト part1

皆さん、アバルトってご存知ですか???

いまのみなさんの認識だと、Fiatのチューナー、500のチューンだけだと思ってました。

最近まで私もそう思い込んでいました

アバルトファンならご存知でしょうが、そんなアバルトの今までをご紹介したい

1908年創業者カールアバルトは生まれた、アバルトは生来のイタリア人ではなかった。

イタリア人系オーストリア人の父と、オーストリア人の母を持ったカルロアバルト。

彼がはまっていったのは、自動車競技と機械工学、その成り行きでモーターサイクルの道を歩み始めた。自動車工場で見習工として働く傍らでウィーン大学に通い、プライベートでレースを始めた。

初レースは初優勝!ライダーとしても才能があった、この勝利によって当時最強と言われたDKWチームの一員としてむかえられた、移籍後も期待に応えていたのだが、、、、

1930年事故に遭ってしまう。医師団から2輪レースを禁止されてしまう。

そこで3輪だったらいいだろうとサイドカーのレースに出場し始める。
(二輪ともそう変わらないと思いますwww)
そして自分の手で画期的なフレームのサイドカーを作り上げ、ヨーロッパ最強のサイドカー乗りとなった。レーサーとしてだけではなくチューナーとしての素質もこの頃から現れている。しかしまた彼を悲劇が襲う。

ドイツではファシズムが進み、同じ枢軸国でもゆるいイタリアで活動をすることにした直後、
事故に遭う、大事故で昏睡状態に陥るほどのものだった。
そしてようやく死地から戻ってきたカルロは第二次世界大戦真っ只中のイタリアにいた

第2次世界大戦集結後、
アバルトは友人だったポルシェのエンジニアだったフルシュカ技師のチシタリアに入ることになる。
チシタリアのF1マシンD46
チシタリア社は当時D46というF1マシンを開発し、参戦、レーシングカーやスポーツカーを販売、製造していた自動車会社のことで、
最も有名なのは202というモデルである。F1ではいい結果を残すことはできなかったが、FIATの車をベースに、美しい純レーシングカー、美しいスポーツカーを世に送り出した、ポルシェともつながりがあり、F1マシンを作ることになるのだが、4WD、V12スーパーチャージャーという斬新で画期的で先を行き過ぎていたせいか、なかなか進まず、苦労し、開発費用で首が回らなくなり破綻。

アバルトはここでも優秀なメカニックとして働いていたが、けいえいしゃのデュジオはどっか行ってしまう、メカや従業員は置いてきぼりを食らった。しかし、ドライバーのグイドスカリアーリーの父アルマンドが資産家でチシタリアに惜しみない助力を与えた、アルマンドはアバルトの経営能力と、メカとしての技術を買っていて、資金を出すからアバルトをリーダーにした会社をしないかと持ちかけたが、
アバルトはチシタリアの皆をほっておくわけには行かなかった。
しかし、抵当権がたくさんかかった工場と仲間を味方に進むことを選んだ
ここでの苦労が、アバルトの価値観、経営の基礎を作った。
202 商業的にはあまり良くなかったものの美術品として歴史の一部となった
そして、オーストリアへさよならを告げたアバルトはイタリアに根付いたコンストラクターとして新たな門出を迎えることとした、1949年チシタリアの仲間や設備をそそのまま居抜き、

ABARTH&C.が誕生した、これがみなさんご存知のアバルトです