2014年6月25日水曜日
名門フェラーリと歴史
最近、フェラーリに力がない
アロンソは、力の限りを尽くしてオーストリアでも5位だった、それにはマシンの性能差があるとか、
ハミルトンのベンツ、レッドブルのマシン、の4台には歯が立たなかった、抑えきれないとまで発言している、、、、、アロンソはF1でも名ドライバーのひとりで5本の指に入るドライバーだ。それでも
そしてライコネンも10位でマシンのハンドリングで四苦八苦した
そんなフェラーリに撤退という噂が流れた
最近戦闘能力が低く感じられるフェラーリにルマン復活の話が流れ
2つ掛け持ちっていうのはむずかしいのではないのか
現実味のある噂だったため世界中に広まったが
次の記事にある通り、それは、否定された
フェラーリ撤退発言の裏に歴史あり繰り返される低迷と復活
SPORTSNAVIでこんな記事があった。
この記事を読んでみてどう思っただろうか、
輝かしい復活劇と苦しんだ低迷期
80年代はフェラーリにとって苦しい時期だったと言えるだろう
しかしそのあとにセナにはマクラーレンMP4-12C
プロストには名車641/2が与えられた
暑いシリーズ争いをプロストはこう振り返る、最高のマシンだった
そしてそのシーズンが最高のドライビングができたと、負けはしたものの、
愛される名車が生まれた。
フェラーリにはF1でも市販車でも最高のマシンを作ってもらいたい
2014年5月21日水曜日
ベルガーが語るセナプロ
記録より記憶に残る男のベルガーはセナのことをこう語っている。
ベルガーとセナの出会いは、かなり前だった
F3の頃からだった、べるがーはこう語っている。
F1へのステップアップへと道を歩めたと言っている
やっぱり、若かれし頃のドライバーというのは、自分が一番、それなりのライバルはいるものの、やっぱり「自分が一番で絶対に負けるわけない」と思っている、ということでセナをかなりライバルとして意識していたようだ。
アイルトンとは友好な関係を築いていた
プロストとセナについて
シンプルにこう語っている
「プロストとセナの関係は最低だったよw」
当時プロストはとっても速くて、勝てて、計算高いレースをする成功を収めたスーパースターだったと振り返る。そこにプロスト曰く、セナが入ってくるわけだが、セナについて、こう分析している。「プロストの一方、アイルトンは若いブラジルのドライバーだったものの、純粋な速さではアイルトンが勝っていた、だからこそプロストにとって難しい存在だったのだろう、」
「アイルトンはとにかく速かった。しかし、アランもそこの点は知っていた。だからこそ、ポールポジションは譲ってやる、しかし、ニキラウダとの1984年の頃と同じように、ニキは一度のポールポジションをとることはなかったが、優勝したように、経験やレース運びで優勝を勝ち取ってやると考えていたようだ」
1988年はアイルトンの速さが際立った年だった、予選では他のドライバーに圧倒的な差を見せつけ、プロストと競りあっていたのだが、第13戦ポルトガルで事件が起こってしまった、
事故によって再スタートになった一周目にプロストが幅寄せする、セナはそれに対抗するように幅寄せし返す、ここからセナとプロストの溝が深まってしまった、この時シリーズも終盤で、この一戦に負けてしまうと、プロストのチャンピオンはなかった。セナとプロストはピリピリしていた。最終戦までにタイトルを確定させた。
1989年はプロストが確実にポイントを稼ぎタイトルを獲得する。
決まったのは鈴鹿でのことだった、セナにとってこれが勝てねばタイトルがない一戦だった
セナはエンジンのピックアップも悪く、プロストに先行を許してしまった。
ウィングを寝かせたプロストと後のないセナはストレートで離れ、コーナーで縮むという熱戦を繰り広げていた。そして、シケインコーナーへと入るプロストはコンサバなラインを取る。
セナがそこに入る、しかし、プロストがライン通り入ってくる。クラッシュ、
セナはエスケープゾーンを使ってピットへ、エスケープゾーンを使ってショートカットしたとしてプロストは訴えます。セナはナニーニとの差を詰め、トップに立ちゴールしました。しかし、プロストの訴えが通じ失格、(エスケープゾーンでの失格と呼べるものではなかった)
その後押しがけによる失格に書き換えられている(しかし、こういうクラッシュはよくあることだ)
このことについてはこう述べている
「今でもこの件に関してはルールははっきり決まってないし、あの日が終われば決まっていた」
「クラッシュを避ける責任が何かなんて定まってないんだ。お互いに歩み寄ることが大切だが、相手のマシンに突っ込んでしまえばおしまい、そうしてタイトルを手にすることだってあるってことさ」
「そのあと二人は政治的な話し合いがもたらされた、二度と繰り返したくなかったから、アランはファンタスティックな最高なチャンピオンだったからこそテーブル上でチャンピオンが決まってしまったことは残念だったね、でもそれもレースの歴史の一部だしすごいチャンピオンシップだったよ。セナとプロストの最強の巨人が勝利を争って思いっきり衝突したんだ。最高だったよ。」
セナがいたからプロストの凄さも見えた、プロストがいたから、セナが光った
と言えるのではないでしょうか。
ベルガーはこの後セナとチームメイトになるわけですが、偏ってない意見だったと思います。
それにしても、べルガーが言うようにセナプロは凄かったんでしょうねー
事故によって再スタートになった一周目にプロストが幅寄せする、セナはそれに対抗するように幅寄せし返す、ここからセナとプロストの溝が深まってしまった、この時シリーズも終盤で、この一戦に負けてしまうと、プロストのチャンピオンはなかった。セナとプロストはピリピリしていた。最終戦までにタイトルを確定させた。
1989年はプロストが確実にポイントを稼ぎタイトルを獲得する。
決まったのは鈴鹿でのことだった、セナにとってこれが勝てねばタイトルがない一戦だった
セナはエンジンのピックアップも悪く、プロストに先行を許してしまった。
ウィングを寝かせたプロストと後のないセナはストレートで離れ、コーナーで縮むという熱戦を繰り広げていた。そして、シケインコーナーへと入るプロストはコンサバなラインを取る。
セナがそこに入る、しかし、プロストがライン通り入ってくる。クラッシュ、
セナはエスケープゾーンを使ってピットへ、エスケープゾーンを使ってショートカットしたとしてプロストは訴えます。セナはナニーニとの差を詰め、トップに立ちゴールしました。しかし、プロストの訴えが通じ失格、(エスケープゾーンでの失格と呼べるものではなかった)
その後押しがけによる失格に書き換えられている(しかし、こういうクラッシュはよくあることだ)
このことについてはこう述べている
「今でもこの件に関してはルールははっきり決まってないし、あの日が終われば決まっていた」
「クラッシュを避ける責任が何かなんて定まってないんだ。お互いに歩み寄ることが大切だが、相手のマシンに突っ込んでしまえばおしまい、そうしてタイトルを手にすることだってあるってことさ」
「そのあと二人は政治的な話し合いがもたらされた、二度と繰り返したくなかったから、アランはファンタスティックな最高なチャンピオンだったからこそテーブル上でチャンピオンが決まってしまったことは残念だったね、でもそれもレースの歴史の一部だしすごいチャンピオンシップだったよ。セナとプロストの最強の巨人が勝利を争って思いっきり衝突したんだ。最高だったよ。」
セナがいたからプロストの凄さも見えた、プロストがいたから、セナが光った
と言えるのではないでしょうか。
ベルガーはこの後セナとチームメイトになるわけですが、偏ってない意見だったと思います。
それにしても、べルガーが言うようにセナプロは凄かったんでしょうねー
2014年5月10日土曜日
最強のコンビは帰ってくる PART2
セナとプロストいろいろなことがあった、紳士協定事件、
そのほかにも、たくさんたくさん、鈴鹿の事故、幅寄せ、それを煽り立てるマスコミ
プロストは別に遅いドライバーでは全くなかった、プロフェッサーとのちによばれているが、
それは、ニキラウダとのチームメイト時代に築かれたものであろう。
それを知るのは、それまでの生い立ちをさらっとおさらいしよう。
1975年、レーシングカートでフランスを制覇
翌年からジュニアフォーミュラーに参戦、13戦中12勝を勝ち取り、圧倒的速さを見せつける
その次の年もチャンピオンになることとなった。
1978年ステップアップしF3に参戦、一年目はマシントラブルが多発、全く結果が残せなかったもののマルティーニルノーに乗り優勝。
そして、F1にやってくるのである。低迷期のマクラーレンでもマシントラブルが多発を経験し、ルノーに移籍。
F1で勝することとなる。シリーズリザルト5位
82年、シーズン序盤ランキングトップを走る、しかし、マシントラブルと自らのミスにより、順位を落とし、安定感を失ったプロストは結果ランキング4位となる
83年はタイトルがあと一歩だった。前年同様ランキングでトップにネルソンピケと13ポイント差をつける。しかし、中盤にピケを抜こうとして接触リタイアしてから一気に調子を落とし。
3ポイント差で敗北を喫した
そして84年古巣のマクラーレンに戻ることとなる
そしてこの年がターニングポイントとなった。
つづく
2014年5月8日木曜日
最強のコンビがF1に帰ってくる part1
今更と言われるかもしれないが、当時最強だったマクラーレンホンダが帰ってくる!!
ホンダF1第二期だ。ホンダはスピリットレーシングにエンジンを供給した
7位が最高順位とイマイチだった、その翌年、ウィリアムズと契約。初めは燃費の悪さが結果に繋がらなかったものの、ロズベルグが優勝し、一勝を獲得、
その次の年、新エンジンを搭載。燃費、ターボラグを克服、3,4位を獲得、調子を上げ、翌年はマンセルが優勝、ピケと二連覇を果たした。
チームは両方を立てた、お互いに自分が贔屓されるべきだと主張し合ったのだ。
そんなふたりが乗るマシンは出来が良かった
箱を開ければ、16戦15勝、圧倒的なホンダのターボエンジンと世界一のドライバーが組んだのだ
こうして華々しくデビュー、
またホンダは帰ってくる
続く
ホンダF1第二期だ。ホンダはスピリットレーシングにエンジンを供給した
7位が最高順位とイマイチだった、その翌年、ウィリアムズと契約。初めは燃費の悪さが結果に繋がらなかったものの、ロズベルグが優勝し、一勝を獲得、
その次の年、新エンジンを搭載。燃費、ターボラグを克服、3,4位を獲得、調子を上げ、翌年はマンセルが優勝、ピケと二連覇を果たした。
そして、ウィリアムズの陣営の対応に不満を持ったホンダはマクラーレンとエンジンコンストラクター
としてパートナーを組む、マクラーレンと契約していたプロストに加え、ホンダは人気ドライバーアイルトンセナと蜜月関係となる。
アイルトンセナとプロスト、F1といえばこの二人という、おじさん世代も多いのではないだろうか?
この二人の出会いは、レーシングドライバーがメルセデス・ベンツでエキシビジョンレースをしたときのことだった、予選ではプロストが、本戦ではセナがトップとなった。プロストが予選を勝ちとってからセナは口をきかなかったというが、決勝では勝ったので評判を落とすことはなかった。初印象のアイルトンセナは静かな若者という感じだったという
プロストはマクラーレンにアイルトンセナを迎えることを望んだことで、マクラーレンとして、アイルトンセナとアランプロストのチームメイトとしてのキャリアが、セナプロ対決が始まったのである。
でも、一瞬に駆け抜け、純粋に速さと求め続けたセナと、ニキラウダに育てられ、レース展開、計画的に進めるチャンプのプロストが二人で並べるわけもなかった。どっちかがチームのファーストドライバーとなり、セカンドとしてアシストするなんてこともなかった。チームは両方を立てた、お互いに自分が贔屓されるべきだと主張し合ったのだ。
そんなふたりが乗るマシンは出来が良かった
箱を開ければ、16戦15勝、圧倒的なホンダのターボエンジンと世界一のドライバーが組んだのだ
こうして華々しくデビュー、
またホンダは帰ってくる
続く
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