2014年7月8日火曜日

セナを偲んで

アイルトンセナが死んで20年たった、あのサンマリノグランプリでの事件から、、

私はその頃いなかった。この世に存在してなかった。

子供の頃から親父の影響もあって車の話、モータースポーツの話ばかり聞いてきた。

その中でもいっそう輝いて見えたのはアイルトンセナであった。

F1の映像を見て、車漬けになった。

中学生、高校生となり、いろいろなものから情報は入る

ネット、雑誌、書籍、

どんどん好きになっていく、セナの人間性に、運転技術に、

僕にとってセナは神様みたいなもので憧れであって。

世界のF1レーサーの憧れであります



日本でいう、b‘zみたいな、誰でも知ってるものだと思っていたのだが

このブログの共同執筆者の一道によると、知らない人が多いらしいので

そこらへんを簡単に説明したいと思う、

アイルトンセナはブラジルの裕福な家庭に生まれる。

卵の殻集めや、電車のおもちゃ、いろいろなものに溢れていて、

4歳の時、父親にカートを作ってもらうように懇願した。一時の気まぐれの一つにも十分なりうる遊

びでしかなかったゴーカートが、セナにとっては違ったのである。

セナの家はとてもでかくその中でトラックやトラクターに乗っていたといいます。

そして、カートを楽しんでいた。たのしみ、勝つために毎ラップ、タイムアップを狙い、横向きになり

そうになりながら走っていたといいます。そしてセナはドライビングテクニックを手に入れ、1972年

にサンパウロチャンピオンに、1977年に南米チャンプになった。

最速の男として、この頃からヨーロッパで噂になっていた。

そして世界カート選手で転戦していた20の時、決断をせねばならなくなった。

大学に進む予定ではあったが、セナは口には出さないが、納得行ってはなかった。

両親はそれを汲み取って、レーシングドライバーの道を叶えさせようと決断したのだ、

そしてフォードフォーミュラ1600の参戦、ロンドンへとやってきた。

この後数年間、イギリスで過ごすこととなる、2000、F3とステップを踏んでいくことになるのだが、

ここでも逸話が飛び出す、ここの話はまた今度にしたいと思う

セナはトールマンからF1デビュー、ばらつきのあるシーズン前半。モナコグランプリで強烈な

インパクトを与える。1984年、セナの皆の評価といえば、まずまずといったところで、初めてのモ

ナコ。一回目の予選は早々にクラッシュ、その後スペアに乗って15位、25周とドライバー最多のラップを走りきった、チームメイトよりもお0,8秒速い、コースも覚え、慣れたところで、少しづつ攻めていく、少しづつコーナ速度が上がる、13位に浮上予選を終えた


決勝レース当日、大雨の中行われた、一周で3台がリタイヤ、大雨のモナコ、多くのライバルが姿を消す、トップはアランプロスト、ナイジェルマンセルがトップ争いを繰り広げていた。

その遥か後方で、とてつもない勢いで追い上げる一台のマシンがいた、それは、セナであった。


ドライではマシンの差で中盤に収まっていたセナだが、雨ではマシンの差がドライバーの雨のドライビングテクニックで埋まった。自らのオーバーテイクと、自滅によって、確実に順位を上げていく、
ケケロズベルグ ルネアルヌーといった超癖のあるベテランドライバーを次々かわし4位へ、マンセルがクラッシュし、セナは一年目にして、表彰台圏内に、それだけでは満足もしなければ、勢いもとどまることを知らない。

この年後にチャンピオンになるニキラウダをかわして二位に、アランプロストとの差は20周の時、30秒以上あったのが、30周の時には10秒近くにまで詰まっていた

プロストとの差は一周3秒~4秒 最大で7秒近く縮まって、セナがプロストを捕まえるのは時間の問題であった、しかし、大雨のために危険としてプロストはオフィシャルにっコックピットから訴え、オフィシャルに伝わり、ゆっくり慎重にマシンを止めた、その脇をセナが駆け抜ける、その時には7秒の差であった、しかし、31周時点でのリザルトとなった、

2位、セナは全く納得できていなかった。喜ぶどころか、イライラしていた。

トールマンは中堅チーム、マシンではマクラーレン、フェラーリ、と比べると圧倒的に不利。

その中で勝利、1位のみを考えてたことを考えると、ここからセナ伝説が始まった










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